2020年10月4日日曜日

論文「ディジタイゼーションとディジタライゼーション(Digitization and Digitalization)」要約#1

※本記事は下記↓論文の要約となります。論文和訳の詳細もしくは原文をご覧になりたい方は下記リンクをご参照下さい。

https://ittechlexicon.blogspot.com/2020/09/1.html

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0.はじめに

「ディジタイゼーション」と「ディジタライゼーション」という言葉は混同して用いられているが区別したほうがよい。

オックスフォード英語辞典によると「ディジタイゼーション」という言葉は、1950年代半ばごろから使われ始め、簡単にいうと「画像、映像、テキスト等のアナログデータをディジタル形式に変換する処理」と定義される。日本語でいうところのディジタル化処理、である。

それに対し、「ディジタライゼーション」、「企業や、産業、国家などがディジタル技術やコンピュータ技術を採用すること、また採用の度合いが増えること」とされており、この辞書の定義は基本的には日本でいうIT化である。

ただし、この記事の著者は、後者については、ディジタル・インフラ(通信・メディア)が我々の社会生活のさまざまな側面を変革するプロセスであるとして両者を明確に区別する。


1.ディジタイゼーション(ディジタル化処理)

1.1 ディジタル情報とアナログ情報の特徴

「ディジタイゼーション」は、アナログ情報をディジタル・ビットに変換する処理(いわゆるA/D変換;以下、「ディジタル化処理」とする)とされているが、ディジタル情報、アナログ情報にはそれぞれ以下のような特徴がある。

【ディジタル情報】
もとのアナログな情報を小さな単位に区切り、各単位を「オン」か「オフ」(0か1)のいずれかの状態として表現する。(その中間の状態はない。)整えられていてクリーンである。

【アナログ情報】
それに対してアナログ情報は連続していて区切られていない。従ってこれを空間や時間や時間に喩え、「自然なもの」、「本物」考え、ディジタルなものを批判する人もいる。(しかし例えば、ライブの録音をしたアナログのレコードは、「本物」なのか?という疑問は残る。)掌握しにくいし雑音も入る。

1.2 ディジタル情報の起源

狭義には、ディジタル情報は、二進数に関して初期の論文を完成させた17世紀の哲学者、ライプニッツに起源をもつ。

二進数の考えは、「オン」か「オフ」しかなく、間がないため、伝送・符号化・復号化時に誤りが起きにくいことからモールス信号等に発展し広く使われた。

1.3 ディジタル化処理の構成要素

ディジタル化処理には、記号の変換と、媒体の変換という二つの側面がある。

(1) 記号の変換

文章・幾何学図形・絵・音声・音楽等のアナログデータであれば、何でも0と1に変更できる。

(訳者注記:この論文ではあたかもアナログ情報であれば、何でもディジタル化できるようにも書かれているように解釈できるが、ディジタル化に適していない情報もある。

例えば、触覚・嗅覚情報は、視覚・聴覚情報に遅れてディジタル化が進められている。味覚情報に至っては、訳者が知る限り未着手である。)

(2) 媒体の変換

i) ディジタル化処理を行うことで、別々の媒体に記録されていた情報を、すべて1種類の媒体に収め、保存したり、伝送したりすることができるようになる。

・例:紙に印刷されていた文章や絵、レコードに録音されていた音楽、テレビで見聞きしていた映像などをすべてデジタル化しインターネットで送信する、等

ii) 媒体は基本、「オン」と「オフ」(「ある」と「ない」が識別できるもの)であれば何でも用いることができる。

・例:シリコン・トランジスタ、パンチカード、原子等

ディジタル化処理の重要な点は、物理的な媒体と非物理的な記号の仲介役を果たす、という点である。

1.4 具体的なディジタル処理の実装方法

ディジタル処理を本質的にいうと、すべての信号を小さな破片に区切り、それぞれの破片を1か0に置き換え、一列に並べたもの(ストリング)といえる。

実装法の具体例としてサンプリングがある。

サンプリングとは、すなわち、もとのデータから、いくつかの部分だけを取り出し、後は捨てるという処理である。

その取り出し方を、空間的に極細かくしていけば、ほとんど元のデータと変わらないだろうと言う人もいる一方で、実際には人が設計したアルゴリズムに従って、その取捨選択が行われていると言う人もいる。

言い換えるとディジタルは飛び飛びだからアナログのほうがオリジナルに忠実であるという考え方と、両者はいずれも程度に違いはあれ、結局は「人間による世界の解釈」でしかない、という考え方、ふたつがある。

1.5 ディジタル情報のメリット

ディジタル化処理を行うともともとは文字、絵、音など別々であったものがすべて1と0に変換されるため、それぞれをあとで区別して復元できるようにしておけば、混ぜて扱うことができる

ディジタル化処理を行うことで、本質的でない情報や冗長な情報はなくなってしまうものの、そういった「雑音」を捨て去ってしまうことでデータの扱いが容易となり、圧縮なども可能となる。

従って、ユーザは、自分たちが情報をどうやって「体験」したいかを自分でデザインできるようになっていく。

(訳者注記:例えば、「絵」を特別な紙に印刷してみたり、アニメーションにしてみたり、プロジェクションマッピングにしてみたり、ホログラムにしてみたり、等。)

1.6 ディジタル情報のデメリット

(1) 著作権問題

当然のことであるが「物質が伝送されることはない」。つまり本物を送る代わりに、電子的にコピー処理を行っているのである。

これによって、原本と複写の識別ができなくなり、著作権上の問題が生じる。(例:PC上でCDを聞くとき、一旦メモリにコピーされるのは著作権上問題ないのか?)

法律上は、ライセンスがあるかどうか、そしてフェアユースであるかどちらかに振り分けて考えなければならなくなる。

複製しても、品質が劣化・消耗しない、複製を作るのにほぼコストがかからない等の理由から、複製部数を管理して、著作権収入を得るのが困難となり、これによって著作権管理技術なども生まれた。

(2) メタデータと監視

情報の分類、格納、検索、インデックス付けなどの目的で、ディジタル化処理されたデータに「関する」メタデータが生成される。

このメタデータの登場により、例えば、ブログ同士がどうつながっているか、Facebookで誰とだれがつながっているか、どのようなニュースサイトが見られているか等といった情報を得られるようになった。

このメタデータは、国家にとって国民を監視するのにとても有用な情報となった。


最終的には、このディジタル化処理が、社会的なグループのあり方や、その相互のやり取りにまで影響を及ぼしていく。

このような社会構造や慣行などといったマクロレベルで生じる変化を「ディジタライゼーション」という言葉で説明する。

(続)

2020年9月16日水曜日

「ディジタライゼーションとディジタイゼーション(Digitalization and Digitization)」

SCOTT BRENNEN AND DANIEL KREISS · SEPTEMBER 8, 2014

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※1 本記事は、著作権者であるCultureDigitally.orgの事務局と、著者であるProf. Daniel Kreiss氏の了承を受けて、同サイトの"Digitalization and Digitization"という記事を翻訳したものです。原典である英文を正本とし、この翻訳は本ブログの運営者が情報共有の目的でのみ行ったものであり、誤訳等お気づきの点がございましたら運営者までご連絡いただけましたら幸いです。
※2 翻訳中における《》は訳者による補足、また意訳により意味が原文と多少外れる、もしくは原文併記をしたほうがよいと翻訳者が判断した箇所については、括弧をしてその中に英文の表現を記載しております。
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「ディジタイゼーション」と「ディジタライゼーション」は、互いに密接な関係にある二つの概念的用語であり、多くの文献では、ほとんど同じ意味で(interchangeably)用いられている。この記事は、この二つの用語をはっきりと識別することに、分析的価値があると主張するものである。

Oxford English Dictionary (OED)によると、コンピュータに関連して 「ディジタイゼション」と「ディジタライゼーション」という用語の初出が見られる文献は、1950年代半ばまで遡る[1]。OEDは、 「ディジタイゼション」を次のように定義する。「ディタル化する行為、もしくそのプロセス;アナログデータをディジタル形式に変換すること(のちにアナログデータとは特に画像、映像、テキスト等を指すようになった)」。それに対し、「ディジタライゼション」とは、「組織、産業、国家などによる、ディジタル技術またはコンピュータ技術の採用、またはその利用の度合いが増えること」としている。

本記事では、OEDの定義に従って、*ディジタイゼション*とは、個別のアナログ情報のストリームを、ディジタル形式のビットに変換する物理的プロセスとして定義する。それに対し、*ディジタライゼーション*とは、ディジタル通信やディジタル・メディアというインフラを中心として、いかに我々の社会生活のさまざまな領域が再構築されるかと定義する。本ページでは、互いに関連した、しかしはっきりと異なる両者の概念について検討したい。

ディジタイゼーション

様々な専門分野の研究者が、「ディジタイゼション」という言葉を、アナログ形式の情報をディスクリートかつ非連続的な、1と0から構成されるディジタル・ビット群に変換する、その技術的な処理をあらわすのに用いている。情報通信分野の研究者であるTony Feldman (1997, 2)は、 「連続的な可変値をとる(アナログデータとは異なり)ディジタル情報は、明確に識別される、ふたつの状態を前提とする。ディジタル の世界では、ものごとは『ある』か『ない』かどちらしかなく、つまり「オン」か「オフ」のいずれかであり、その中間には何も存在しない」と述べている。ディジタル ・ビットが取り得るのは二種類の値のみであるため、Robert Pepperell (2003, 126)の言葉を借りると「ディジタル情報はディスクリートであり『クリーン』なのに対し、アナログ情報は連続的であり『雑音』が入っている」と、多くのものたちが主張した 。また、 Robinson (2008, 21)は、「アナログ」を次のように定義する。「《アナログなものは、》スムーズに変化し、空間や時間のようにまったく継ぎ目のない、侵すことのできない正確さを持ち合わせている。空間や時間をその比喩として用いることで、アナログであるということは、空間や時間が限りなく分割してゆけるのと同様、真正(authentic)であり、かつ自然であることという意味合いが含まれている。それは、特定の方法で精度を落とした、人工的なディジタルなもの対比される(例:ビニール盤のレコード対CD)」

アナログなものの例として、1960年~1970年代頃のシンセサイザーがある。このシンセサイザーは音を生成するのに1と0からなるバイナリの代わりに「変化する電圧等の連続的変数」を用いる(Pinch and Trocco, 2002, 7)。また、情報通信の形態としてのディジタイゼションの歴史は、光を使ったセマフォ(light semaphores(*1))に遡るとする説もある(Winston, 1998)より狭義には、ディジタイゼションの概念は二進数の発展にその起源を見ることができる。ディジタイゼションの基礎は、二進数に関する初期の論文を完成させた、17世紀の哲学者、ゴットフリート・ライプニッツにあるとする説もある (Vogelsang, 2010: 7)。ライプニッツの考えは、いくらか遅れてモールス・アルファベット、ひいてはテレグラフの標準システムとなったモールス符号の基礎を形成することになる。二つの状態のみを使用するバイナリ・システムであるモールス符号は、その他の選択肢に比べて、伝送・符号化・復号化エラーに対して極めて高い耐性をもつことが証明されている (Vogelsang, 2010: 7)。広く普及した初期のディジタイゼション ・システムのひとつであるモールス符号などといったイノベーションを通じて、二進数は、その後のコンピューティングやディジタイゼションの歴史的な基盤を形成することになる(see Edwards, 2004, x-xii)。

(*1)訳注:Light semaphore: 1868年、イギリスの信号装置メーカ、サクスビー・アンド・ファーマー社がジョン・ピークナイト(John Peake Knight)に設計して作らせた初の信号機。https://en.wikipedia.org/wiki/Traffic_light#cite_note-15

ディジタイゼションのプロセスは、記号と物質という《2つの》次元で行われる。記号的観点からすると、 ディジタイゼションは、アナログ信号の、1と0で表記されるビットへの変換であるということができる。従って、ディジタイゼションの結果として、多様なシステムの多様な物質上に、多様な表現を可能にする情報が生成される。ディジタイズされた信号の保存や伝達には、理論上、二つの状態を表現できる物質であればどのような物質であっても利用可能である。例えば、シリコン・トランジスタ、パンチカード、原子などである。このような性質のために多くの研究者が、ディジタイゼションによって生成した情報を格納する物質的システム(トランジスタ)についての重要性を強調するのを差し控えるようになった。他方でその「非物質的」な性質(e.g. Manoff, 2006, 312)が強調されるようになった。そうとは言え究極的にはディジタル情報がビットとして、物質としてのトランジスタの物理的な「向き」によって格納・通信されることを無視するのは誤謬である。ディジタイズされた情報の最終的なあり方は、特定の物質に限定されるものではないものの、物質の配置具合(configuration)に根差すものである。ディジタイゼションというプロセスのユニークさは、物質的なものと、非物質的なものを仲介する (Manoff, 2006; Hayles, 2003) というそのあり方そのものにある。

ディジタイズされた情報をトランジスタ群で表現することが可能であるのと同様、「数字やアルファベットを使ったテキスト、図像、静止画、動画、音声等のすべての形態のデータ」はディジタイズすることができる (Verhulst, 2002, 433)。その基本的プロセスは、「すべての信号を小さな破片へと細分化」し(van Dijk, 2005: 44) 、1と0のストリングに符号化するというものである。このプロセスが適用可能な情報の種類はほぼ問われないが、この変換プロセスは、非常に具体的な技術的メカニズムによって行われるものであるため、オリジナルの信号そのものを変化させる、具体的な技術的インフラを必要とする。

例えば、ディジタイゼションは、*サンプリング*を通じて行うことができる。Negropone (1995: 14)の記述を引くと、「信号をディジタイズするということは、空間的な距離が十分近く、元の信号の完璧な複製として使用可能なサンプルを、複数信号から取得することである」。しかしながら、サンプリングとは、定義上、アナログ信号 の特定の部分を選択的に使用し、残りの部分を捨て去ることも意味する。サンプリング処理は、見かけ上、完璧な複製を表するために行われるのであるが、ディジタイゼーションのプロセスにおいては、何を捨てて何を捨てずにおくかの判断は、アルゴリズムに依存する。最も根本的なレベルにおいては、アルゴリズムとは、「入力データを指定された計算処理に基づいて所定の出力に変換する、コード化された手順」である。Hayles (2003)は、コード化は、いわば「解釈」であると主張している。究極的には、アルゴリズムは、エンジニアがディジタイゼーション処理を行うための機械を設計・構築するのとまったく同じように、プログラマによって記述されたものである。一般的な文献や学術論文では、ディジタイゼーションは多くの場合技術的プロセスであるとされているものの、実際には、どの信号を捨てて、どの信号を捨てずにおくかという判断をくだす権限を、ディジタイゼーション処理を行うアルゴリズムに人間が「委譲」しているのである。ディジタル技術が能動的に行う「仲介的」処理を認識しておくのは有用かもしれない一方、Jonathan Sterneが唱える音声複製の歴史によると、アナログ 技術についても全く同じことが言える。アナログ 技術はよりオリジナルに忠実な表現を可能にし、ディジタルによる表現はその瞬間瞬間のビットを連続的に再構築するものだといういう考え方が一般的に蔓延しているが、 Sterneは、両者には類似点があるとしている。どのような形態のものであっても、何らかの「仲介(mediation)」が行われること、それすなわち必然的にこの世界の解釈が行われることであると認識している (Sterne, 2003, 218-219).

多くの論文ではディジタイゼションによって生成されるのは、明確に区別が可能な特徴的データだと認識されているのに対し、 Negroponteは「ビットはビットでしかないため、なんの労力も要せず混ぜ合わせることができる」(1995: 18)として、ディジタイズされた情報の普遍性を強調している。ビットは、「桁を持つ数字(digit)に変換される前の、オリジナルの形態、もしくは、エンドユーザがアクセスする際にその数字が表現するもの」とは全く無関係に、ビット同士は相互作用し合うことができる(Flew, 9)。しかしディジタル情報が普遍性を獲得するためには、本質的でない(non-essential)「付加的情報」(Dretske, 1982: 137)、もしくは「内在する冗長性および繰り返し性」を捨て去らねばならない(Negroponte, 1995: 16)。 ディジタイゼーションにより興味深い不完全さが伝わらなくなることを見て嘆く者がいる一方、ディジタイゼーションはコミュニケーションを基本的な構成要素にまで切り詰める(reduce)ことによって、普遍的な通信を可能とするリンガ・フランカを生み出しているのだとするものもいる (van Dijk, 2006).

ディジタイズされ、エラー、繰り返し性、および電波障害(static)が除去された情報は格納・伝送が容易になり、「これらのデータを簡単に操作したり表示」することが可能になる(Verhulst, 2002: 433)。さらに、ディジタイズされた情報には「データ圧縮」を行うこともでき (Negronponte, 1995, 15)、これによって「大量のストレージ容量を抑制する」ことが可能となる (Verulst, 2002: 433)。つまり、ディジタルデータは操作が容易であるため、ユーザは、情報に対してさらなる制御力(additional control)を得ることができる(Owen, 1997: 94; Beniger, 1986)。この増強された制御力の介在(agency)によって、ユーザは「それ《情報》をどう経験するかを自分たちでデザインする(shape their own experiences of it)」ことが可能となる。つまり、 ディジタイゼーション により、ユーザと、情報のあいだの相互作用性(interactivity)を高めることができるようになる。これは、ひょっとしたら、法律学者のLessig (2008) による、ディジタル 技術が「リミックス文化」の民主主義的形態を支えるという広義の考え方により、最も強力に表現されているかもしれない。

ディジタイズされた情報には、2点間を簡単に、安価に、そして正確に伝送することができるという秘めたる能力がある。ディジタル・ビットは、1か0という2つの状態しか取ることができないため、受信側のノードでは、アナログシステムで生じるような、データの伝送時や復号化時のエラーが生じる可能性が低い。研究者たちの主張によると、これによって「ロスレス(無損失)」伝送が可能になるかもしれず「障害や、誤ったデータが複製されてしまう回数を減らし、処理や計算が正確に(exact)に行われる可能性を高める」(van Dijk, 2005: 44)。それと同時に、これは、ディジタル情報の伝送には物理的な物質の転送が伴わないことも詳らかにする。その代わりに行われているのは、トランジスタの状態(configuration)に関する情報の伝送のみ、つまり生じているのはコピー処理のみである。これを、原本と複写の識別性を侵害するのだと認識するものもおり(Groys, 2008: 91)、この考え方は特に、知的財産権に関する法的問題に関わってくる(see Benkler, 2006)。Lessig (2008, 98-99)が次に述べているように、これは知的財産権が拡張されることを示唆しており、それが問題となりうる。

「法律上、『複製』または『コピー』については規制が課されているが、ディジタル形式で創作物を使用する際、使用する都度、テクノロジーそのものによってコピーが作成されてしまう。誰かが電子書籍を「読む」際、マシンがハードドライブまたはネットワーク上のハードドライブにある本のテキストを、コンピュータのメモリ上にコピーをすることになり、その「コピー」が著作権法の問題を引き起こす。コンピュータ上でCDを再生すると、ヘッドフォンやスピーカに送られる途中で、録音内容が一旦メモリにコピーされる。どのような処理(action;行為)であれ、その処理が著作権法の問題を引き起こす。そうなるとすべての処理を、ライセンスが付与されている、もしくは「フェアユース」であるという主張に基づいて、正当化しなければならなくなる。」

おそらくディジタル・メディアの複製可能性、相互作用性、配信可能性というアフォーダンスについて、その中でも特に、ディジタルメディアがいかに知的財産権の執行を複雑化させたかについて、最もよく捉えているのは法律面からの研究であろう。Lessigは上記の引用において、ディジタイズされた情報が引き起こす重要な葛藤を捉えている。他方、 ディジタイズされた情報は「非競合的」である。つまり、複数の別々の人間がそれを使用したとしても、オリジナルのディジタル・オブジェクトが消えてなくなったり、劣化したりすることはない。それと「複製(replication)にかかる限界費用はほぼゼロである」(Brynosofisson, 2014)という事実と併せて考えると 、ディジタイズされたコンテンツの安価かつ忠実なコピーが、あちこちに増殖しまう可能性がある。ディジタル情報の複製(replicating)の容易性、クリエイティブに組み替えられた文化的コンテンツの拡散を促すような相互作用的アフォーダンス、そして、ディジタル創作物の流通の容易性によって、著作権で保護されたコンテンツから収益を得ることが困難となり、文化的な商品に対し、執行可能な著作権を主張する能力が損なわれることとなった (Ananny and Kreiss, 2011; Benkler, 2006; Boyle, 2009; Fisher, 2004; Lessig, 2008)。

他方、業界は、消費者向けの商品や、さらには著作権のある作品の「フェアユース」ですら厳重に封じ込める《機能を備えた》「ディジタル権管理」 技術を数多く生み出し、そしてプラットフォーム《企業》や個人に対して、著作権が存在する可能性のある全作品を削除するよう(裁判所が「フェアユース」であると認定するようなケースも含めて)圧力をかけることで対応してきた(Vaidhyanathan, 2003)。管轄権とガバナンスに関する根本的な問題についての苦悩に加え(DeNardis, 2014)、法律とディジタル技術のアフォーダンスの交わる場所で生じるこれらの問題が、この二十年間のインターネット規制についての作業を活発化させてきた(Mansell, 2012)。

ディジタイゼションに関する法的懸念事項は、著作権保護にとどまらない。近年、ディジタイゼションと監視の関係について、多くの人たちが検討を重ねてきた。最も注目に値するのは、Negroponteである。Negroponteは、約20年前にはディジタイゼションによって「メタデータ」または「他のビットについて何かを語るビット」が生成されるということを認識していた(1995: 8)。メタデータは、ディジタル形式の情報を、大幅に簡易化もしくは削減することで生成される。システムにより、信号を最も基本的な形態に「蒸留」することによって、ディジタル・ストリームに*関する*情報が生成される。メタデータを使用することで、コンピュータ・システムやインフラ側で、ディジタイズされた情報に対しインデックス付け、検索、格納などを行うことができるようになる。ディジタル・メタデータは、多くの場合、ユーザ自身が、情報を分類しインデックス付けするその方法に従って作成するものである(Mathes, 2004)。

メタデータは、知識の生成、社会科学的な研究、政府による監視など、幅広い分野において、ディジタル ・メディアの極めて重要な側面になりつつある。メタデータは、ブログのネットワーク化構造、Facebook における社会的つながりのパターン、アラブの春におけるソーシャルメディアの使用パターン、政治的なニュースサイトへのトラフィック、健康に関するメッセージの拡散パターンなどといった、「ビッグ・データ」に関する社会科学的研究の出現と、その発展に関わってきた。メタデータは人々を監視したい国家当局にとって、とてつもなく有用であるということも明らかになってきた。国家によるメタデータを使用した監視の法的問題については、アメリカの国家安全保障局が世界各地の人々の監視にディジタル・ メディアを使用したことをエドワード・スノーデンが明らかしたことで論争が続いている。この議論の文脈において、Healy (2013)は、組織間の提携関係《に関する情報》を用いることで、コミュニケーションの内容を考慮せずとも、ポール・リビアと、その革命の同志を「発見する」ことが可能である、というメタデータの力を示したのである。

様々な分野において、多くの学者たちが、ディジタイゼションと、ディジタイズされた情報の根本的(radical)ユニークさを、一致団結して歓迎した。その多くの者たちは、情報をディジタイズすることによって、情報に重要かつ有意義な性質を付与することができると考えてきた。学者たちは、これらの性質はディジタル形式の情報に特徴的なものであって、ディジタイゼーションの必然的帰結であるとしている。多くの人にとって、ディジタイゼーションはメディアという風景全体を根本的に変容させるものである。ちなみに、ディジタイゼーションがユビキタス化したのはもはや間違いない。現時点で私たちが日々頻繁にインタラクションするメディア技術は、ディジタルである。ディジタル技術に比肩するようなアナログ技術は、ますます存在しなくなってきている。

最終的には、ディジタイゼーションが、社会的なグループや、その相互のやり取りにまで波及することが示唆される。学者たちは、このような社会構造や慣行などといったマクロレベルで生じる変化について「ディジタライゼーション」という概念を用いて検討している。

ディジタライゼーション

現代において「ディジタライゼーション」という言葉がコンピュータ化との関連で用いられた初出文献は、1971年に出版されたNorth American Reviewのエッセイである。このエッセイで、Robert Wachal(in Sanders, 1974: 575)は、コンピュータ支援による人文学研究に対する反対意見と、その可能性について論じる中で、「社会のディジタライゼーション」の社会的意味合いについて検討している。

これを皮切りに、ディジタライゼーションに関して膨大な数の論文が書かれるようになった。関心の対象が、アナログ・データ・ストリームのディジタル・ビットへの変換やディジタル・メディアの特定のアフォーダンスといった内容から、ディジタル・メディアが、いかに現代社会を構造化し、形作り、そして影響するかについてに移っていったのである。この意味において、ディジタライゼーション《という言葉》は、ディジタル・コミュニケーションとメディア・インフラストラクチャーを中心とした、社会生活のさまざまな領域の構造化《プロセスとその結果》について表すようになった。本セクションでは、社会生活のさまざまな領域のいくつかにわたってディジタライゼシーションの観念が残していった足跡を学者たちが追った、主な論文をいくつか取り上げる。

「新たな経済・社会・文化」の*ディジタライゼーション*について観察を行ったManuel Castells(2010)は、ディジタライゼーションは現代という時代を定義する唯一の特徴、もしくは特徴のひとつであるという見方をしている。Castellsは、現代の社会生活の全ての側面、もしくはその多くを説明する手段として、その根底にあるメディアと、コミュニケーション・システムに注意を向けたのである。van Dijkが主張するように、「歴史上初めて、我々は、単独で全ての社会活動を関連づけることができるコミュニケーション・インフラを手にしたのである」(2006: 46)。このコミュニケーション・システムは、「ニュー・メディア」によって特徴付けられる。「ニュー・メディア」とは、多くの場合「ディジタル信号の管理機能を持つデバイス上に再構成されることにより変身を遂げたオールド・メディアのこと」と定義されている(Verhulst, 2002: 451)。ディジタライゼーションが現代の世界をどのように形作ってきたかを分析するのに学者たちが使用してきた視点(ways)は多く存在する。例えば、グローバリゼーションの進展に注目が集まった。グローバリゼーションは、ディジタライゼーションを介して越境経済の拡大を促したプロセスであり、かつそのような経済拡大によって促されたプロセスである(Sassen, 1998)。経済のディジタライゼーションとグローバリゼーションによって国家主権が浸食され、物質性と場所という概念が変容し、文化、資本、商品、そして人の新たな流れが形成されたのである。金融のみに着目しても、ディジタル・メディアがグローバル・キャピタル・フローの中心的な役割を担っていることを、多くの学者が指摘している (Knorr Cetina and Bruegger, 2002)。

ディジタライゼーションに関する研究では、社会生活の多くの領域を整理する方法として「情報」を引き合いに出す(invoke)。いわゆる「情報化社会」に関する研究は非常に幅広く、また多様であるが、国家経済と職業パターンに広範囲にわたるシフトが起きていることに着目した Fritz Machlup (e.g. 1962)とDaniel Bell (1976)が、その多くの起源である。この枠組みにおいて、「コンピュータ・テクノロジーが情報化時代に果たす役割は、産業革命において機械化が果たしたそれと同じようなものである」と多くの学者たちは主張した(Naisbitt, 1984: 28)。それでも、この視点は、あまりにもおおざっぱな 技術的決定論であると認識するものもいた(Webster, 2006: 12)。

その他の学者たちは、いかにしてディジタライゼーションが、まったく共通点のない領域同士の「コンバージェンス(集約)」を促す契機となったかを論じることによって、ディジタライゼーションがいかに広範囲にわたって社会生活に影響を及ぼしたかを説明している。とりわけ、「ディジタライゼーション」によってメディア・コンバージェンスがもたらされ、その結果、以下に詳述するような、幅広い範囲での社会的変化や技術的変化が数多く促されたことを認識している者も多い。ディジタイゼーションがもつ、それ以外の全ての媒体を「真似」し、シミュレートし、一元化(consolidate)することが可能な媒体を生成するという、その能力によって、ディジタルなものは究極的に「多様な形態の情報」を一元化する「一般化された媒体」 (Beniger, 1986: 26)として、もしくは究極的には「媒体レス」(Negroponte, 1995: 71)なものとして見なければならないと主張するものもいる。究極的には「ディジタル・コンピュータは、既存のメディアすべてを再現し、シミュレートできるため」、ディジタル ・メディアの出現が「媒体とは何かについて再考を促した」(Jensen, 2013: 217)。

学者たちは、社会生活における多くの異なるプロセスや領域の「コンバージェンス(集約)」の概念について探究し、コンバージェンスの様々な形態を特定した。論点を明確にするために、我々は、既存の主張におけるディジタイゼーション およびディジタライゼーションに関連したコンバージェンスを、次の4つの次元にまとめた。つまり、インフラストラクチャーのコンバージェンス、端末のコンバージェンス、機能および修辞的コンバージェンス、そして市場のコンバージェンスである。

最も一般的に文献で扱われるコンバージェンスの形態は、*インフラストラクチャーのコンバージェンス*かも知れない。学者たちは、ディジタイゼーションによって、いかに物質的コミュニケーション・インフラが集約されたかを説明している。この種の集約には、二種類ある。一つ目は、ネットワークまたは 「インフラストラクチャー」の集約(van Dijk, 2006: 7)で、これはコミュニケーション・インフラの基礎を形成する配線や「管」などの物理的ネットワークの集約を指す。ディジタイズされた情報は、(ほとんど)すべてのディジタル・システムによって操作・理解が可能であるため、「どのようなディジタル信号であっても、その伝送にはネットワークの種類を問わず使用することができる」(Storsul & Fagerjord, 2008: 1320)。これはつまり、 「かつては別々のやり方で提供されていたサービスを、ひとつの物理的手段(それが、電線であれ、ケーブルであれ、電波であれ)を介して運搬することができる」 (Pool, 1984: 23)ことを意味する。二番目は*デバイス* または*端末のコンバージェンス*で、これは、ディジタイゼーションによってもたらされた、複数のメディア・デバイスの一元化について表している(Storsul & Fagerjord, 2008: 1320)。その典型的な例はスマートフォンである。スマートフォンは、それまでの様々なデバイス(電話、コンピュータ、カメラ、オーディオレコーダ、カレンダー、計算機、ノートパッド等)の代替となった。

ネットワーク・インフラストラクチャーやデバイスのコンバージェンスが進展するにつれ、それぞれのコンバージェンスに対応した「サービス」の*機能的コンバージェンス*が生じた (Storsul & Fagerjord, 2009: 1320; van Dijk, 2005: 7)。ここでもまた、スマートフォンが効果的な例となる。スマートフォンは、様々なデバイスを物理的に一元化しただけでなく、それまで別々の媒体に対応づけられていた多くの機能を実行する。多くの学者は、この機能的コンバージェンスをそれに対応する「修辞的コンバージェンス」に関連づける。「修辞的コンバージェンス」とは、言い換えると「それまでは別々の媒体上に見られていた」 (Fagerford, 2003: 1)文化的形態をひとつの媒体に集約することをいう。機能的および修辞的コンバージェンスは、より大局的には、「媒体とその使用方法の間にかつて存在していた一対一の関係」の「浸食」ということができる(Pool, 1982: 23)。つまり、コンバージェンスは双方向で働く。一台のデバイスが複数の機能を実行できるだけでなく、かつては単一の媒体で提供されていたサービス(それが放送であれ、出版であれ、通話であれ)を複数の異なった物理手段で提供することが可能になるのである(Pool, 1982: 23)。

ディジタイゼーションの結果としてさまざまなサービスが共通のインフラ上に集約されるにつれ、それに呼応するように産業と市場の集約(convergence)が起こった。集約を、「コンピューティング部門、テレコミュニケーション部門、メディア部門、情報部門」など、かつては別々だった産業部門の一元化(consolidation)という観点から観察するものもいれば (Flew, 2005: 10)、これをより一般的に「インフラとサービス、ソフトウエアとメディア・コンテンツの区別」の不鮮明化 (Storsul & Fagerjord, 2008: 1321)として認識するものもいる。これら二種類《つまり産業と市場》の集約は、企業合併(consolidation)に紐づく。企業合併によって、それぞれの企業が拡大し、複数の市場や産業部門に入りこんでいく。このようなコンバージェンスが起きていることについては、ほとんどの人の合意が得られるはずである。こういった市場や産業の集約は、技術的な変化、特に技術的コンバージェンスを通じて起こったと説明するものもいれば、「技術に後押しされて起こったモードの集約が、株式の持ち合い(cross-ownership)という経済的プロセスによって強化された」とする者もいる(Pool, 1982: 23)。原因が何であれ、産業の集約はメディア規制に大きな関わりを持つ。ディジタイゼーションとコンバージェンスは、従来、規制する側であった放送王国の基礎を大きく変えるものである (Verhulst, 2002: 434)。

次に、複数の社会的領域を横断的に構造化するモードとしてディジタライゼーションを扱った論文や、上記で我々がとりまとめたような、インフラストラクチャーのコンバージェンス、端末のコンバージェンス、機能的・修辞的コンバージェンス、及び市場のコンバージェンスという、より広範囲の潮流を前提として、ディジタライゼーションを、《社会を》不安定化する力して位置づける論文など、数多くの論文について論じたいと思う。

*文化と知の「生産(production)」(*2)*

(*2)訳注:原文には"production"という語にはクオテーションマークは付されていないが、ここではいわゆる「生産」という意味でかぎ括弧を付した。通常、「文化」や「知」に対して「生産(production)」という言葉を用いることはあまりないが、ここでは、ディジタイゼーションによる情報の記号化、媒体化、そのコピーの複製・流通などを一連の「生産プロセス」として解したことによる。

この十年にわたり、文化と知の生産過程が急激な変化を遂げてきたと多くの学者たちが語っている。Facebook、Twitter、Wikipedia等のプラットフォームが存在する世界では、ディジタル技術特有のアフォーダンスを通じて、著作権から自由な(non-proprietary)、市場ベースではない、全く新しい知と文化の生産形態が登場し、それによって、社会において創造する力を得た当事者が変容してきていると多くの学者が主張している。

その中の一人として、例えば文化の生産に関連して最も影響力のある理論家は、法律学者 Yochai Benklerかもしれない。同氏の*”The Wealth of Networks”* (2006)は、約この十年にわたり、ディジタル ・メディアの法律的、技術的そして倫理的な関わり合いについての学問を作り上げてきた。

Benklerの同書によると、例えば、グローバル規模での「仲間(peer:ピア)」または「ソーシャルな」生産プロセスが史上初めて可能になる。ディジタル情報の製造コストや流通コストが激減しつつあるおかげで、ピア・プロダクションが、知や文化の生産に関わる他の市場メカニズムを取って代わりつつある。ディジタル・メディアの登場によって、 iPhoneで撮影したディジタル・ムービーから政治批判のブログまで、すべて《のコンテンツ》について、製作コストや配信コストがほとんどかからなくなった。これは特に、ハリウッドの映画スタジオや専業の新聞社などといった、業界の巨獣の製作・配給/流通(distribution)システムと比べると顕著である。さらに、Benklerは、文化的・知的な商品の製作を行うのに、もはや個人は、市場からの金銭によるインセンティブ(direct market incentive)や、知的財産権に対する金銭以外の見返り(indirect market subsidy(*3))すら必要としなくなったと主張している。その代わりに、個人は、創造の楽しさ、情熱、または単純な善意からディジタル商品を創造し配信するという。それがディジタル・プラットフォームと組み合わさると、知の生産プロセスに対する何百万人という個の貢献が、例えば、Wikipediaなどのように、まったくそれ自体で非常に価値の高い(highly consequential)ものとなり得るのである。

(*3)訳注:一般的に"indirect subsidy"とは、公的機関からの金銭によらない補助を指すもののであるが、ここで言いたいのはクリエイティブコモンズの著作物に対して金銭以外の何ら見返りがなくても文化的・知的生産を行うということのように解される。(参考:https://smallbusiness.chron.com/indirect-subsidiary-42411.html#:~:text=Direct Versus Indirect Subsidies,typically considered an indirect subsidy).

Benklerはさらに、市場の外側にある(non-market)このような協力的労働形態が、国家や官僚的組織によるそれに匹敵するほどの経済価値を生み出すようになってきていると主張している。まさに、これらの新たな文化や知の生産の多くは秩序立った管理組織の外で行われていると、Benklerは主張している。その代わりに、労働は、個々人特有の制約や時間に合わせられ、心理学的・社会的に満足を得られるプロジェクトを簡単に探究できる、労働者たちの関心、価値観、および時間によって賄われるようになってきた。また、Benklerの主張によると、より広くは、この新たな労働形態が革新を引き起こし、専門的なジャーナリズムから、学術書籍の出版まで、さまざまな領域の情報生産《の存在意義》が急速に疑問視されるようになる時代を、ディジタル・メディアが切り拓きつつある。さらに、大規模プロジェクトを通じたコラボレーションを通じて、個人は、利益や心理的満足を得、協力的そしてチーム志向になっていく。


*政治参加と集団行動*

多くの学者たちは、ディジタライゼーションが、現代の政治参加と集団行動の形態やプロセスに対しても同様の影響を及ぼしてきた形跡を確認している。政治科学者であるBruce Bimber、Andrew Flanagin、Cynthia Stohl (2012)は、ディジタライゼーションによって定義される情報環境において、市民《の政治》参加がどのようにして変化してきたかを詳しく述べている。Echoing Benkler、そして前述の学者たちの主張によると、市民は、自分たちの政治参加のしかたのデザインについて、根本的にこれまでとは全く違った期待感を抱いており、そして、そうする高い能力と意欲を持っている。

ディジタル前時代の《政治》参加は、主に団体側が個人の参加を促すために、どのようなインセンティブや機会を提供できるかによって定義されてきた。それに対し、ディジタル時代では、個人に与えられた選択肢の数が圧倒的に多い。従って団体側は、団体におけるメンバーシップと政治活動を個人が自ら定義し、その定義に基づいて行動できるような、よりオープンな参加(engagement)形態を提示する必要がある。

こういった参加形態の多くは、 ディジタル形式の「追跡データ」の急増により、新しく利用できるようになったデータやアナリティクスを使用することで成立する。このような「追跡データ」を用いることで、ユーザのアクションやインタラクションに関するフィードバックをリアルタイムで得ることができるようになった。例えば、David Karpf (2012)の分析によると、MoveOn.org等といったディジタル環境で生まれた(digitally native)市民団体は「受け身型(passive)民主的フィードバック」のひとつの形態として、ディジタル・アナリティクスに依存している。こういった団体は、何がクリックされたかを追跡することによって、その団体に対する「メンバーシップ」にとって何が重要かを評価している。また重要なことに、ディジタル・メディアを使用して、団体の戦略を立案し、目標を設定し、戦術やアクションの優先付けをし、最終的にその団体のプライオリティに関する声をメンバーに届けるのは、団体内の比較的少数の幹部たちだけである。さらにそれを拡大し、Karpfは、ディジタル・メディアの告知的(informational)アフォーダンスによって、《政治》参加の構造、プロセス、そして形態そのものがどのように変化したかを示している。

このような学者たちは一般的に、ディジタライゼーションに呼応して、新たなまたは旧来の団体がどのような新しい形態を身に付けていったかに着目しているが、Lance BennettとAndrea Segerberg (2013)は、 ディジタライゼーションがどのように集団行動の形態や可能性に影響を及ぼしたかを観察している。

スペインの「怒れる者たち」、アメリカ合衆国の「ウォールストリートを占拠せよ」などのケースを追ったこの本では、リーダー不在の分散型集団行動を支えたのは、秩序に基づくリーダーシップや構造化された組織ではなく、ディジタル・メディアであったことを強調している。この面からすると、コミュニケーションは、演説(public speech)と独り言(private speech)の間を橋渡しするような、パーソナライズされたナラティブや表現形式の手触りによって形作られる。従って、それまで何十年にもわたり、集団行動の形成にあたって重要な役割を果たしてきた秩序的な団体の代わりに、そういった散型的な集団行動が起こりうる。

*国家とグローバル化*

他の学者たちは、グローバリゼーションのプロセスと国家・権威・公民権の間のつながりが、ディジタライゼーションによってどのように形作られつつあるかに目を向けてきた。Saskia Sassenは、「ディジタイゼーション」(この章で用いた「ディジタライゼーション」 の拡張版)の考え方を用いて、国家の基本的構成要素である「領地、権威、および権利」(2006, 336)の新たなグローバル規模での成立について、多くのことを主張している。Sassenは、 ディジタル ・メディアが、越境型の新たな政治形態を可能にし、政治的プレイング・フィールドを資源の乏しい組織や個人にまで拡張し、さまざまなスケールで地区・国家横断型の行動や情報を生み出し、ローカルな場所とグローバルネットワークをつなげることについて、より多くの文脈を与えたと主張している。また、Sassenは、 ディジタライゼーション をインターネットと混同しないことの重要性について強調している。例えば金融の文脈においては、国家の外側にある市場の力がグローバル資本の力を高める役割を果たした、つまり、国家政府に対して金融的な検討を強要し、政策立案に影響をあたえることを事を可能にしたのは、インターネットというよりは、「専用のプライベート・ディジタル・ネットワーク」の成長のほうであった。

Sassenの論文は、ディジタルなものと非ディジタルなものは鱗状に重なりあい、そして全体的に縒り合わさっているとしている。ディジタル・メディアは、完全にばらばらな、社会的な力とコンテクスト、政治的な力とコンテクスト、経済的な力とコンテクスト、文化的な力とコンテクストを形成し、またそれによって形成されている。グローバル・メディア群は、確かに領土、権威、そして権利の様々な側面を構成しなおしたが、それと同時に、非メディア的な力の関与も深く受けており、ローカルな場所とも深く絡み合っている。 Sassenは、いかにディジタルが、例えば合理化、標準化、そして官僚化に逆らうように、「空間-時間的秩序」を改変した(415)かを示したのである。

*社会構造*

最後に、多くの学者たちが、ディジタライゼーションの社会構造に対する影響を分析している。学者たちは、一般的に、社会的「インフラがコミュニケーション・ネットワークの影響により」変わりつつあることを示唆している (van Dijk, 2005: 156)。特に、ディジタルネットワークがグローバルな社会組織のロジックと構造を大きく変えたと主張している。 Manuel Castellsは、社会的な組織のディジタライゼーションの増加によって「ネットワーク社会」が登場したとしている。

ネットワーク社会の単位となるのが、ネットワーク(Castells, 2000)なのか、個人(van Dijk, 2005)なのか、はたまた「ネットワーク化された個人」(Rainie and Wellman, 2012)なのかについては多くの議論がなされているが、このように視点は違えども、一般的にはネットワーク化された社会構造とグローバル・ディジタル・インフラの間の関連については一般的に合意が形成されている。

それと同時に、これらの文献それぞれにおいて、ディジタライゼーションをネットワーク化社会の構成要素として、またネットワーク化社会をディジタライゼーションの構成要素として記述することに対して用心している。van Dijkにとっては、「ネットワーク社会を創造する」のは、社会構造とコミュニケーション技術が「互いを形成しうあうプロセス」である(van Dijk, 2005: 156)し、Castellsにとっては、社会的な力と技術的な力が、互いのかなりの部分を構成し合っているため、「テクノロジーは社会であり、そして、技術的ツールなしに社会を理解したり表現することは不可能である」としている (Castells 2010: 5)。


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 [1] There is a large literature in the medical science fields dating from the late 1800s on ‘digitalization’ that refers to the administration of the digitalis family of plants for the treatment of heart ailments. For the purposes of this chapter, we do not consider this specialized use of the term.

2020年9月14日月曜日

このブログの目的

このブログは、技術翻訳者であるAkiko Uchidaが運営しています。

このブログでは、主にIT関連の、わかっているようで実はわかりにくい言葉を、歴史的・語源的観点から解説していきます。

技術職の方、英語に興味のある方、同業者の方をこのブログの読者として想定しております。間違いのご指摘、別の解釈のご提示、感想など、コメント欄よりお待ちしております!

論文「ディジタイゼーションとディジタライゼーション(Digitization and Digitalization)」要約#1

※本記事は下記↓論文の要約となります。論文和訳の詳細もしくは原文をご覧になりたい方は下記リンクをご参照下さい。 https://ittechlexicon.blogspot.com/2020/09/1.html ----------------------------------...